舞台「フェードル」感想的な何か_210117

※ネタバレしまくり注意です

舞台「フェードル」を観てきました。

めっちゃ良かったです。舞台上に渦巻くエネルギーに静かに深く圧倒されました。

前情報としてはほとんど何も事前に入れていなくて(バカなので最初演題を見たときフェードルという名前の響きからロシア人の話?とか思いました。多分それはヒョードル)、直前に購入したパンフレットでだいたいのあらすじと人物相関を見てへ〜と思う程度でした。

ちなみに幕が上がる前から海沿いの街が舞台ですよとわかる演出がされているのでパンフレットを見なくてもなんとなくの情景が浮かんできます。親切!でもパンフレットは色々盛りだくさんなので買ったほうがいい!

そのパンフレットで事前に想像した限りの人物像を裏切られたのが大竹しのぶさん演じる主役のフェードルで、劇を観る前はその狂気で周りを巻き込んでいく怪物〜というようなイメージを膨らませていたんですが、劇が深まるにつれ、最も運命に食い荒らされているのは彼女なのではないかな、と強く感じるようになり。

それは物語を俯瞰する観客としての哀れみというよりははっきりと共感で、手に入らないものに焦がれる気持ちというのは現代であっても誰にも覚えがあるものだと思います。
叶わぬ恋、不道徳とされる恋、恋の他にもどうにも手に入らなかったものはたくさんあるし。

フェードルの恋情の原因はヴィーナスの矢ということになっていて、女神というものの実在を信じる現代人は少ないですが、でも神経のある一点を電気で刺激したら、意志とは関係なく身体が反応することは知っているわけです。

理性を超えたものに突き動かされたり、操られたりというところに古代、近世と現代の違いは無いんじゃないでしょうか。

そんなふうにすっかり共感してしまったので、劇の途中、フェードルが不義の恋の相手をどう「落とすか」、彼女の乳母と相談しているとき観客席からは笑い声が少し上がったわけですが、私は自分が笑われたみたいに恥ずかしくなりました。

その場面が笑いどころである、というのはよく理解できて、フェードルは片想い相手が恋のなんたるかを知らない幼い男であるために自分になびかないのだと思っているのだけど、俯瞰している観客は青年イッポリットには他に想い人がいる(恋を知っている)というのを知っているので、それを知らずに希望をもっているフェードルの姿がこっけいに映るということなので…
書いててちょっと辛くなってきましたが、既に劇を観た人であの場面で笑ったけど…という人、私がただ強く共感して勝手に苦しんでるだけなので気にしないでください。

フェードルが矛先を向ける相手、義子イッポリットを演じた林遣都さんの演技もよかったです。

エウリピデスの原典では激しい女性嫌悪をあらわにする(男性なのに女性に溺れない、というある意味“完全無欠”な)理性の男というキャラクターだったらしいのが、ラシーヌ版らしさ?を意図して演出されていたのか、人間見のある悩める青年という等身大に落とし込まれていました。

フェードルに迫られる場面も彼女に対する嫌悪より驚きが先立つ感じが、冷酷というよりはひたすら真面目な奴なんだな…という感じ。

フェードルの恋が成就したとして、その場合はこっちが死にかけるくらい悩みそうなほど真面目そうなのでやっぱり結ばれてはいけない二人なわけで。二人とも気高い人物なので恋さえなかったら、フェードルが胸に秘め続けてたら義理の親子としていい関係を築けてたかもしれない。いやそれは無いかな…

ともかく誤報。全部誤報が悪いんや… パノープは伝えることが仕事なのでしゃーない。

それで、色々とそういうふうに、人間味のある青年として肉付けされているから最後のアリシーとの一幕、祖先の神殿を思い浮かべながら遠い希望を語る場面は胸にせまるものがありました。

その時の瀬戸さおりさん演じるアリシーの、同じ夢を見ているような、でも怯えと、事の顛末を悟って諦めているようななんともいえない表情も素敵でした。

フェードルが自身の激情に翻弄され、荒れ狂う人物なので他の人たちは冷静な感じなのかなと思いきや、(冷酷とか冷たいとか無関心の意味合いとしての言葉は出てきますが)みんな全体的に言葉の応酬、本音のぶつかり合いという感じで激しくて、詩的言い回しの難しさを超えて観客席に刺さってきます。

イッポリットの養育係を演じた酒向さんは抑えた演技でしたが、声が心地よくて抑えた中にも父性や悲しみが通っていてそれがかえって印象深い。

劇作家ラシーヌがフェードルという女性をどう描こうとしたか、みたいなのは色々論文とか随筆とかがあるんじゃないかと思うんでここで何を言おうとしても、ですが、彼女は高潔な人物なんですよね。
一度は恋敵のアリシーを殺すとまで言った人が、狂気に搦めとられて罪を重ねることがなく、乳母の甘い言葉と決別して(それが彼女の最初で最後の自立だったかもしれない、)落とし前をつける。

それは想い人が死んだことによっての後悔からかもしれないけど、(殺されなかったことがアリシーの生き地獄ではありひどいんですけど…)彼女が一矢報いた運命の一部だったんじゃないかなと思います。

最後のシーンはフェードルが苦しみからやっと解放されたという意味で、救いととれるなとも感じたり。
(自分のとった席が2階でちょっと舞台から遠いかな〜とか思ってたんですがこの最後のシーン、上からの席のおかげで大竹さんの表情がよく見えて逆に2階で良かったかもってなったくらいです)

フェードルにもたらされた救いであって巻き込まれた人たちの犠牲がでかすぎるんですが、物語の始めで「どうしよう!義理の息子を好きになっちゃった!夫に申し訳ない!」とか言って自害しだしたら個人の中で完結しすぎて人間ドラマでもなんでもないですもんね。

人が社会の中で生きてる限りに起こり続ける関わり合いの中で胸を掻きむしるほど苦しんで、時に希望を見て舞い上がって、また絶望して、を凝縮した、エネルギーの塊をそのままぶつけられる体験をした2時間でした。

東京公演も他県での公演もまだあるようなので、演じる人、スタッフの人、観る人がみんな無事に完走できますように。
(本来、リスクを負わなければならない環境がおかしいわけですが…興行主催の責任という意味でなく)

※「ラシーヌ 悲劇」で検索するとwebで公開されているフェードルの研究論文なんかが出てきたりして、あの単語は原語ではこういう意味合いが、とか衣装の色もこういう演出の意図があったのかな?とか想像できて楽しいです。

余談ですがイッポリットの衣装について、若く高潔な青年のそれっていう感じのデザインですがあのキラキラした首飾りは若干チャラついてるなと思いました。海辺っぽさというかファイナルファンタジーみたいな… 母親の形見みたいな真面目な設定があったら申し訳ない。